ボランティア活動という言葉が放つ特有のきな臭さについて

佐藤です。
お金っていうのは実は清潔なものかもしれないという話です。

僕は現在、学生という身分の傍ら、月1で児童館に通い、演劇に関するワークショップを小・中学生に行うという活動をしています。
その活動自体がボランティアであるという自覚はあまりないのですが、改めて考えてみると、ある種の社会活動を無報酬で行っているという性質から、ボランティア活動であると言ってしまってよいでしょう。
んで、この活動を他人に話すときにいつも難儀します。

「休日とかなにしてるの?」
「月1で児童館に行って、子ども達に演劇を教えてるよ」
「……それは怪しい活動?(引き気味に)」

これは実際の会話ですが、なんかよく引かれます。
物騒な時代なので仕方のないことだということは分かりますが。
他にも、例えば難民の支援活動をしている大学生NPO団体とかをテレビで見ると、「お前、それ、就活のアピールのためだろ」とか、よからぬ邪推をいつもしてしまいます。

ボランティア活動というのは概して胡散臭く、なにか下心があるのではないかと思われてしまう傾向があるように僕は思えます。
一方、まったく活動内容は同じであっても、報酬が発生すると、この「きな臭さ」は感じられません。

「アルバイトはなにしてるの?」
「児童館に行って、子ども達に演劇を教えてるよ」
「素敵!!!」

報酬が発生する場合、活動の動機は基本的に報酬となります。「お金をもらうために仕事をする」というのはとてもシンプルで分かりやすく、清潔で信頼感があります。
一方で無報酬の場合、活動の動機は人それぞれです。動機なくボランティア活動に参加する人はいません。その動機は時として善意であり、時として善意ではありません。その曖昧さを人は訝しむわけです。例えば同じ団体のメンバーであっても、その動機は人によって異なる事が多いです。かつ、その各々異なる動機を、団体内外で明確にしておくことが、その団体に対する信頼感に繋がるのではないかと思います。

オチが思いつかないのでこの辺で。
ちなみに僕の場合、善意ではなく執着です。動機を一言で話すのは難しいですね。