たぶん考

佐溝です。旅行記を中断して

最近、「脳のなかの金魚」という電通の人が書いているコラムを読んだ。
http://www.advertimes.com/20140616/article160108/

内容については特にコメントはないのだが、「たぶん」という言葉の使い方が印象に残ったのでちょっと考えてみることにした。

その記事から引用すると、
「〜けれど、他にやり方は、たぶん、ないのだ。〜」といったかたちで「たぶん」ということばが使われている。
また、同じコラムの中の過去記事を見ると「人生は祭りだ。たぶん。」というタイトルの記事もある。
こういった使い方をするのはこの著者の癖なのか、はたまたそれほど便利な言葉なのか。同じコラムのなかで2回も使っていれば癖なのだという気もしないではないが、過去にさかのぼれば、糸井重里も「このへんな生きものは まだ日本にいるのです。たぶん。」というキャッチコピーを残しているし、おそらく後者の側面も多分にあるのだろう。

その側面にフォーカスを当て、「たぶん」ということばがなぜ便利なのかさらに考えてみたい。
一つには意味的にトゲをなくす効果があるためである。文章を書く際にありがちではあるが、断定を避けることで意味的に丸みを持たせることができ、意見に反対する人の拒絶反応を和らげることができるようになる。
二つ目にはその語感である。「きっと」ではk音が刺々しい印象を与えるし「おそらく」では堅苦しい印象が拭えない。unという音を含んでいるからなのか、「たぶん」には液体のような、丸みを帯びたような印象を与える効果があるように思われる。

そして、今回述べたいのはここなのだが、上述のように意味的にも語感的にもやわらかい印象を与えながら、文章全体で見れば意見を押し付ける強さを持つ、というところに「たぶん」ということばの本当の便利さがあるのではないだろうか。そしてその便利さゆえにキャッチコピーや題名など、短い言葉でなにかを伝えたいときに使われやすいのではないだろうか。


文章の中に「たぶん」が入ることによる効果は主には以下の2つだ。ひとつにはその文章が命題として真になること。断定していないので、間違いようがなくなる。要は、どんな文章であれ間違っているわけではない=正しいことを言っている、ということになる。
「酒はみんなで飲むからうまいのだ」だとこの命題は偽である可能性があるが、「酒はみんなで飲むからうまいのだ、たぶん」であれば、それはすくなくとも誤りではない。
二つ目は、その命題が真であるという証明を本人が行わなくてもよくなる、ということだ。断言してしまえばそれに対し「そうだと思うんなら、ちゃんと証明しろよ」となり、それを証明するべきは発言した人になるが、「たぶん」を付け加えることにより「俺の言ったことは『間違ってはいない』だろ。否定したければお前が根拠を用意しろよ」となるのだ。そして、「たぶん」が含まれている文章に反対の意見を持つ人もそこまではしようとしないし、する手段もない。つまりは言ったもん勝ちの状態になるのだ。これは自分の意見にはっきりした根拠がないときに使うととても便利な言葉である。平たく言ってしまえば「俺はこう思う!なんでだかはうまく言えないけど!違うと思うんだったらお前がその理由を言えよ!」と言っているのと同じなのである。

柔らかい意味と語感を持ちつつも、自分の意見の正当性を非常に強く主張してくることば、それが「たぶん」ということばなのだ、たぶん。
そんなことを考えた。

異様に固い文章になってしまったが、こんな堅苦しいことを考えるのは今日で終わりだ。そういった頭はすべてこれで捨て去り、あすからは本番に向けてオモローな頭に切り替えるのだ。

いよいよあさってから!劇団だるい010「This Planet isOurs」
土曜日の回は満員御礼(当日券は出るかも?!)ですが、日曜等まだまだ空きがあります!是非是非お越し下さいませ!お待ちしております!

あしたはラストスパート