普遍的な笑いとは

大河内です。先週は2回目の通し稽古でした。ようやく全体を俯瞰して見れるようになってきましたが、個々の作品の完成度を上げるのはこれからが勝負という感じです。

さて、ここからがタイトルの記事です。
だ、である体で下書きしたので、急に偉そうになってすみません。


音楽、スポーツ、ダンスに国境は無い。
しかし、笑いに国境があるのは歴然たる事実である。

それは笑いが言語・文化と密接に関係しているためである。
コメディー映画、ギャグマンガは世界的ヒットにならない。本国でウケがいいほど、外国ではウケない。笑いとは常識/通常からのずれ、ギャップ(=変なこと)から生まれるが、出す側と受ける側が共通認識を持っていなければ、「変である」こと自体が理解され得ないからだ。

しかも、共通認識の範囲は狭ければ狭いほど、笑いの強度は強くなる。狭い範囲の常識ほど、日常生活での印象は強く、またその常識に潜在するおかしさも無意識に感じ、蓄積されているためだ。また、自分がそのコミュニティーの一員である安心感を笑いと同時に得られることも、狭い範囲の笑いをより強固にさせている。

変顔、下ネタなどのプリミティブな笑いは除くと、普遍的な笑いは難しい。
世界的なコメディ・グループというと英国のモンティ・パイソンの名前が挙がるだろう。緻密なナンセンス劇が時代・地域を超えて新しいファンを獲得しているのは、普遍的かつ高度な笑いが可能であることを示す、彼らの偉大な功績である。しかし、ある程度前提知識を要しており、欧米人、インテリ層がメインターゲットである感は否めない。

最近、ジャック・タチという仏国の国民的コメディアンの映画祭が開催されており、ここでも普遍的な笑いへの挑戦を見ることができた。
(続く)